ブリジェクトX ~社長のブログ~
この仕事を始めたわけ
投資トレーダーからの転職
海に魚がいない!
魚の加工を始める
自分で作って自分で売る!
他には無い“ゑびす屋”名物誕生
投資トレーダーからの転職
私、笠井健司は、1960年富山県氷見(ひみ)市で海鮮問屋の長男として生まれました。
すくすくと田舎の港町で育った私は、地方の若者の多くがそうであったように、大都会、東京に憧れるようになっていました。
猛勉強の末、皆が憧れる東京の大学に合格することができ、卒業後は、銀行に就職。外国為替などの売買を行う花形部署でトレーダーをやっていました。
ある日、とんでもないミスを犯してしまいました。
「このままでは千万単位の損失だ…」
トレーダー画面に向かいながら真っ青になり、慌てて売買を閉じたのですが、時すでに遅し。数千万の損失を出していました。
「東京でうまくいかなかったら、氷見に帰って家業を継ぐ」
そう親と約束していたことが胸の奥にずっとあり、これがきっかけで、銀行を辞めて氷見に帰って来ました。
海に魚がいない!
氷見に戻ってからは、家業である海鮮問屋を継いでいました。
漁師が獲った魚を、市場で買い付け、店に卸すのが仕事の海鮮問屋。
バタバタとしながら5〜6年過ぎ、仕事にも馴染んで来た頃、とんでもないことが起こりました。
海に魚がいない!
富山湾の魚が激減したのです。氷見市場の水揚げも大幅に減りました。
私は、人生で初めて「売るものがない!」という経験をしたのです。
海には魚がいて、漁師さんが獲り、それを毎日買い付ける、そんな当たり前のことが根本から崩れたのです。
魚の加工を始める
「こんな不安定な生活ではいけない」
そう思った私は、魚の加工を始めることにしました。
加工魚なら、大漁の時に仕入れて月々売って行くという安定した商売ができるはずです。
アジやサバの干物から始めました。
おつきあいのあったスーパーや量販店の方達にも好評で、たくさん買っていただきました。しかし当時はデフレの真っ最中。
大量に作っても利益がほとんど出ない日々が続いていました。
自分で作って自分で売る!
そんなある日、うっかり冷凍室に閉じ込められてしまいました。
従業員も帰ってしまった後で誰もいません。
死を覚悟しました…。
大学時代の空手が功を奏し、この時は、凍った扉を押し開けて何とか脱出できました。
しかし、私は、深く考え込んでしまったのです。
このまま量販店に卸していても薄利多売になるだけだ。
自分が死んでも、お金もない、何も残らない。
今まで、何のために頑張って来たのだろう…。
ちょうど、氷見に道の駅ができるという話が持ち上がっていました。
そうだ、自分で店を持って販売しよう。
他には無い“ゑびす屋”名物を!
さっそく申し込んだのですが、よく考えると、
店を出すといっても何を売ればいいんだ?
アジやサバの干物では珍しくもなく、安く売ることは目に見えている。
鮮魚はもうこりごりだ。
新しくて店の目玉となる商品を開発すればいいんだ!
その想いで誕生したのが、最初の商品「醸熟ぶりステーキ」です。
オリジナル麹で醸した「醸熟ぶりステーキ」
今でも店の一番人気です。
笠井 健司