【ぶりの歴史】

標準和名「ぶり」については、江戸時代の本草学者である貝原益軒が「脂多き魚なり、脂の上を略する」と語っています。 「アブラ」が「ブラ」へ、さらに転訛し「ぶり」となったという説があります。漢字の「鰤」は魚に師と書きますが、「『師走』に脂が乗って旨くなる魚だから」、または「『師』は大魚であることを表すため」などの説があります。その他、身が赤くて「ブリブリ」しているからといった説もあります。 また大きさによって呼び名が変わる出世魚としても有名です。 日本各地で地方名とあわせて様々な呼び方をされています。
関東:ワラサ(60-80㎝)→ブリ(80㎝以上)
北陸:ガンド、ガンドブリ(60-80㎝)→ブリ(80㎝以上)
関西:メジロ(60-80㎝)→ブリ(80㎝以上)
南四国:スズイナ(60-80㎝)→ブリ(80㎝以上)

花の慶次などでも有名な前田利家も歳暮用に氷見ぶりを使用していたそうです。
氷見市宇波の荻野家に伝わる文書に、「京都より御用の由に候に付 当浦より、ぶり17本調候て よく塩きさせ せかたなと入 いかにもいかにも念を入 早々可上の御意に候也」というものがあります。当時、京都に住んでいた前田利家が、氷見灘浦のぶり17本を塩ぶりにして送るように金沢城に指示を出しました。
江戸時代の文禄4年(1595年11月7日)前田藩の村井豊後守ら老臣が連名で、その旨を宇波村肝煎に伝えた、有名な「ぶり上納申し状」です。

越中ぶり、氷見ぶりのブランドの古さは、以下の文章からも読み取れます。
正保4年(1647年)に出た俳書「毛吹草」には、「越中ぶり、丹後伊禰浦ぶり、出雲友島ぶり、壱岐ぶり、対馬ぶり」と、越中ぶりをトップに挙げています。
当時から、すでに越中ぶり、氷見ぶりは天下に名をあげていたと想像できます。また、越中ぶり、氷見ぶりのブランドの古さは、以下の文章からも読み取れます。
元禄8年(1695年)の「本朝食鑑」では、「丹後の産を上品として、越中これに次ぐ」としています。

氷見寒ブリは、日本一のぶりのブランド品です!!
築地では、氷見産が一番、その次に能登ぶり、佐渡ぶり、その他のぶりと値段がつくそうです。
偽装事件があった後、「証明書」と「ブル-の箱」が義務付けられました。

ぶりが文献に登場するのはいつでしょうか。平安中期の漢和辞典『和名抄』に、ハマチの名があります。波里萬知。これが波萬知となりました。ぶりの名が出るのは、室町時代の文安元年(一四四四)にできら国語辞典『下学集』が最初とされています。
『水橋旧記』に、≪諸魚三分の二は金沢上り、三分の一は地払いに定め。ぶり、フクラギ、ハマチなどの類は地払いなり≫とあります。富山県内でも、ハマチの呼称は古くから使われたようです。

ぶり料理を語るに、ぶり寿司は落とせません。ご飯を使う“押しずし”と、こうじを使う“なれずし”とがあります。
明治四十一年創業、「ますのすし」で知られる富山市牛島、源が「ぶり寿し」を始めたのは昭和三十二年。ぶりの旬で圧十二月から翌年二月まで、期限を切って製造していました。しかし、いまひとつ人気が出す三十七年に販売を中止。食通や料亭からの注文製造に切り替えました。復活したのは五十四年暮れ。一日百個を限定販売しました。現在は一日五百個に伸び、お盆や正月前後は日に一千個も出るそうです。

流鏑馬で知られる射水郡下村、加茂神社(野上克美宮司)。この神社に、平安時代から津吹きと伝えられるぶり分け神事があります。
元旦の朝、氏子のカニ安全、魔除招福を祈り、供え物のぶりを切って配る珍しい神事です。氏子たちは“ぶりの読み上げ”と呼び、ぶりの切り身を焼き、夕食に家族全員で食べ無病息災を祈ります。全国でただ一つ残る“魚読み”神事です。

富山湾岸の氷見・四方(現富山市)・滑川・東岩瀬(現富山市)などに水揚げされたぶりは、飛騨や信州の山間部に送られていましたが、その輸送路が「鰤街道(ぶり街道)」でした。


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